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翻訳機はない

自閉症スペクトラム児は音声言語(バーバルコミュニケーション)が苦手です。
比較的発語が多いお子さんの場合、この子は「言うことを理解できている。」とか、「内言語が豊富である。」などということが多くあります。
しかし、本当にそうでしょうか?
「座る」と言われて座ることができるお子さんがいたとします。
このお子さんが、自分がやっていることを止められたり、邪魔されたりしたくないときに支援者に「すわる」と言ったとしたらどうでしょう。このお子さんにとって「すわる」は「邪魔をしないでそこにいろ!」「何もしないでそこにいろ!」という意味だと翻訳できるのではないでしょうか。

また、とても楽しい室内の活動を楽しんでいるとき、「砂場、靴をはく。」と言ったとしたら、どのような翻訳が適切でしょう。
もしかすると「砂場」にも「靴をはく」にもその言葉の意味はなく、「とっても楽しいよ!」と訳せるのかもしれません。

私たちの言葉がけがどのように受け止められているか、そして子どもたちの言葉をどのように訳していけばいいのかは、もしかするととても難しいことなのかもしれません。
もちろんそんなことができる翻訳機はありません。

私たちが言葉に頼り過ぎている。その言葉は共通の意味を持つことが少ない。と認識する必要があるのかもしれません。

だからこそ、視覚支援なのだと思います。
一緒に仕事をしている若い先生がいます。彼女はいつもポケットにメモとペンを入れて、言葉だけでなく絵を描いて子どもたちに話しています。
いつも、このような原則的な取り組みができる支援者でありたいと思っています。

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自閉症スペクトラム児の療育・教育」カテゴリの記事

コメント

私もなんだかんだといって、自分側の「ことば」に頼りすぎていました。
何かに取り組ませるときだけ、写真や絵カードを使っているのでは、コミュニケーションではないんですよね。
今さらながら、反省です。

投稿: あっき~ | 2009年4月16日 (木) 22時16分

あっき~さんコメントありがとうございます。
今さらながら反省は、私も同様です。
でも「スタートは何回あってもいい。」のですから、今かかわっている子どもたちのために本当の支援とは何なのかを考え直す機会にしたいですね。
お互いに・・・

投稿: BOGEY | 2009年4月16日 (木) 23時13分

ことば過信、わかる気がします。
重度児の中で暮らしているとことばがなくても世間話はできますし、最近は余計な言葉を減らす努力をしています。注意などはやりかた間違えると自分の構え・態度も崩れてしまう。
特に問題なのは、「この子はものは言わないけどなんでもわかっているはずだ。」みたいなこども観があることです。その論理で大人が「この子も
こう考えているはずに違いない。」と自分の願いを押し付けた子育て、支援をしたり、絵の解釈を
して心理を探るなんていう人々があったり…
現実の中で懸命に生き、格闘しているこどもたちとは現実の中で行為を通した共同共感を大事に暮らしていきたいと思います。勝手な物語でなくて。

投稿: Tom | 2009年4月17日 (金) 05時54分

 いつもながらの鋭い考察、勉強になります。この度職場が変わり、“ことば”を扱う職種に就くことになりました。来週からの指導開始に向けて、引き継ぎ資料に目を通して、構想を練っていました。考えが煮詰まって、発語を促すための支援に偏りがちになるところでした。大切なのは、共感することですね。

投稿: hige | 2009年4月18日 (土) 09時30分

TOMさんへ
「勝手な物語」確かにあると思います。
子どもと、どのような関係を築きあげていくのかが今の私の課題です。
安易な取り組みが結果的に子どもを「裏切る」ことにならないようにしたいと思っています。

投稿: BOGEY | 2009年4月18日 (土) 12時22分

higeさんへ
こちらこそhigeさんのブログで勉強させていただいています。
ブログ名に「モト」が付きましたね。私は地域コーディネーター兼支援学級担任となりました。
「発語」と「サイン言語」そして「意味」への繋がり・・・
私の今後のテーマにもなりそうです。

投稿: BOGEY | 2009年4月18日 (土) 12時26分

 こんにちは。先日は丁寧なコメントありがとうございました。
 日々の生活の中で、「ことば」とはなんと「あてにならないものか」ということを感じています。私自身も、どれだけ思っていることを正しく他人に伝えることができているでしょう。また、相手もどのくらい私の意図を理解してくれているでしょう。それぞれの人の「(言葉の意味、解釈が書かれたものとしての)辞書」は決して同じではないんですね。
 逆に、ほとんど無発語の息子と過ごす中で、言葉が無くてもなんと多くのことを伝えることができるのでしょう。息子の意図を汲み取ろうとするとき、言葉がない分、同じ「辞書」を共有しようとしている自分がいる気がします。

投稿: ぴさまま | 2009年4月19日 (日) 23時49分

TOぴさままさん

音声言語がなくてもコミュニケーションはもちろん可能ですよね。
>同じ「辞書」を共有しようとしている自分がいる気がします。
もしかすると音声言語がない方が共通の言葉を持ちやすいのかも知れませんね・・・
これっていわゆる「自閉症文化」の入口かもしれません。

投稿: BOGEY | 2009年4月21日 (火) 23時39分

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